吉田茂の名言や内縁の妻のこりんとのエピソードは!見どころ満載の再放送は?

テレビドラマ

吉田茂と言えば、戦後の総理大臣の中で、日本の復興に大きく寄与した人物として知られています。

吉田茂の人情あふれる人柄が日本人に愛され時には誤解を生むこともありましたが戦後史を語るには欠かせない偉人と言えると思います。

吉田茂と内縁の妻のこりんとはどうなっていたのか?

制作されたドラマが再放送に起用されるということは、やはり今でもただならぬ人気があるのだと思います。

エピソードの多い総理大臣だったのですが、まとめてみたいと思います。

吉田茂の自宅は長谷川町子宅の隣にあった!

現在も放映されている人気・長寿アニメ番組の『サザエさん』の作者である漫画家の長谷川町子さんの家がたまたま吉田茂さん宅の隣だったのです。

吉田茂さんは「わしのうちの隣はサザエさんの家だ」とよく言っていたとのこと。

庶民派の吉田茂さんはアニメや漫画もよく見ていたようですね。

(長谷川町子さんは、後年 紫綬褒章(1982)勲四等宝冠章(1992)国民栄誉賞(1992)を受章します)

吉田茂が防衛大学校第一期生に対する訓示が泣ける!

戦後に防衛大学校が開校され、自衛隊が軍隊なのか?憲法違反ではないか?などの騒動のさなかに第一期生が卒業します。

その卒業生に対し、吉田茂さんが訓示をしたのですが、これが泣かせるのですね!

君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、歓迎されたりすることなく自衛隊を終わるかも知れない。非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。

しかし、自衛隊が国民から歓迎されチヤホヤされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。

言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。

どうか、耐えてもらいたい。自衛隊の将来は君たちの双肩にかかっている。しっかり頼むよ。

 

自衛隊の将来について、そして将来、若き自衛隊がどんな立場に置かれるであろうかということを深く考えて、自衛官の将来のことを思い図っての訓示だと思います。

内容として、誠にその通りであり、泣かせる名文句ですね!!!

吉田茂とマッカーサーとのやりとりが凄かった!

吉田茂さんは、敗戦後の日本の外務大臣だったのですが、当時の総理大臣である鈴木貫太郎に助言を求めこういわれたというのです。

戦争は、勝ちっぷりも良くなくてはいけないが、負けっぷりも良くないといけない」

 

吉田茂さんは「言うべきことは言うが、あとは潔く従う」という態度を取りますが、これがGHQ(=占領軍司令部)には評判が悪かったと言います。

敗戦国の代表者なのに、ずいぶん偉そうに…」そう思われていたのかもしれません。

このとき、吉田茂さんは敢然と反論し、

権力に左右されるような政治家は、また別の権力が現れた場合には、意気地なくこれになびくものだ

 

と答えたと言います。

戦後の日本は、もう混乱でどうしようもなく、ワンマンと言われようが、誰かが強引にでも音頭を取らないと、にっちもさっちも行かない状態だったのだと想像できます。

やや強引な手法だったのかもしれませんが、吉田茂さんが、自分が「これだ!」と信じた方向をドンドンと進めて行ったからからこそ、復興も早かったのかもしれません。

吉田茂の鮮やかな切り替えしの論法

吉田茂さんは、政治学科卒ですが、辣腕弁護士のように切り返しも鮮やかだったということが知られています。

ある時、吉田さんがマッカーサーに食上事情が悪いことを政府統計をもとに示し、食糧輸入をアメリカに働きかけたことがあります。

マッカーサーはこの資料を逆手に取り「日本の数字はずさんだ!」と言い張ります。

(まあ、かなり水増しなどがあったのかもしれませんが…)

すると、吉田茂さんは毅然として切り返します。

戦前にわが国の統計が完備していたならば、あんな無謀な戦争はやらなかったろうし、もし完備していたら、勝っていたかもしれない 

こういわれると、アメリカもある程度は折れざるを得なかったかもしれませんね。

さすがの手腕、と唸らざるを得ません!

吉田茂のけっこうな高調子の返答もある

吉田茂さんが、記者たちに囲まれて取材を受ける(今日でいうところの『囲み』取材、ぶら下がりなどにあたると思います)機会はたくさんあったと思います。

ある時、記者から「顔色がずいぶん良いようですが、何を召し上がっておられるのですか?」と聞かれたときのこと。

吉田さんは即座に「人を喰っている(=人を小ばかにしたような態度、尊大・ずうずうしい態度などをいう)んだよ」と答えて記者たちをあきれさせたとか。

また、1916年に寺内正毅が首相になったときに、吉田茂さんが就任のあいさつに出向きました。

寺内首相が「どうだ吉田、総理大臣の秘書官をやらんか?」と水を向けられたときに、吉田さんがすぐ返答します。

秘書なんて、とてもとても。

総理大臣ならつとまるかもしれませんが、秘書官はとてもつとまりそうもありません 

ある種、大胆不敵、そして憎まれない吉田茂元首相の人柄を示すエピソードだと思います。

吉田茂と妻のこりんについて

吉田茂を検索していると『こりん』というキーワードが出てきます。

これは、小倉優子さんのことではなくて…(笑)、吉田茂さんの内縁の妻の名前になります。

吉田茂さんは、妻の吉田雪子さんに早々と先立たれてしまいます

花柳流の名取として、芸者としても活躍していた坂本喜代子さんが『こりん』さんで、雪子さんの死後はしばらく、内縁扱いだったのですが、数年後に再婚されます。

義父の莫大な資産を引き継いだ吉田茂さんは、花柳界でその資産を豪快に使いまくっていたというので驚かされます。

吉田茂さんとこりんさんとの間には子供はいなかったようですので、こりんさんの画像なども残されていないようです。

吉田茂の経歴を少しまとめてみると…

吉田茂

生年月日 1878年10月20日生まれ
出身地 東京府(現在の東京都)神田駿河台
出身小学校 戸太町立太田学校(現在の横浜市立太田小学校)
出身中学校ほか 後述
出身大学 最終学歴は東京帝国大学法学部(現在の東大法学部)
政治学科卒

吉田茂元首相ですが、旧姓は竹内だったとのころで、板垣退助の右腕だった、竹内綱の五男として東京神田駿河台に生まれます。

父親が、反政府分子として長崎で逮捕された直後のことで、詳細は不明であり、また実母の身元も良く解っていないようです。

実母は、父の投獄後に高知県宿毛市から上京し、父の親友であった吉田健三氏の元に身を寄せていたと記されています。

1881年(明治14年 茂が3歳のとき)に吉田健三の養子となります。

養父 吉田健三氏が1889年(茂が11歳のとき)に死去したため、茂さんは吉田家の莫大な遺産を相続することとなります。

明治27年に16歳で、今日の義務教育にあたるカリキュラムを終え、そこから約10年間は、あちこちの学校に籍を置くことになります。

1894年 16歳時 日本中学(のちの日本学園)に1年在籍
1895年 17歳時 高等商業(のちの一橋大学)に入学するも2カ月で退学
1896年 18歳時 正則尋常中学校(のちの正則高等学校)卒業
この年に慶應義塾・東京物理学校(のちの東京理科大学)にも籍を置くが中退
1897年 19歳時 学習院に入学
1901年 23歳時 旧制の学習院高等学科(のちの学習院高等科)を卒業
学習院大学科に入学するも大学科が閉鎖となる
1904年 26歳時 東京帝国大学法科大学に移る
1906年 28歳時 東京帝国大学政治学科を卒業

学習院大学から、東大法学部へって、そんなのありなの?
現在では、そんな編入学みたいなのは絶対無理、ということだと思います。

ところが、当時はそれが出来たようでして、作家の三島由紀夫さんなども、学習院から東大に入学したことになっています!)

卒後は外務省に入省されまして、外務官僚として勤めながら実績を積み政界に転身して総理大臣まで上り詰めます。

まとめ

吉田茂元首相について書いてきました。

  • 多くの人をうならせるような名言を残されています。
  • 戦後のアメリカとの駆け引きに重要な役割を果たされました。
  • 養父の莫大な資産を引き継ぎ、豪快な言動がありました。
  • 妻 雪子さんに早く先立たれ、芸者だった坂本喜代子さんと再婚します。
  • 日本の戦後復興に欠くことができない人物で、国民に愛されていました。

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